源平墨俣川古戦場 義円公園
長良川をはさんだ源平墨俣川の合戦!
平安時代末期の養和元年(1181年)2月4日、「平清盛」病死。東国源氏は、勢を得て京へ攻め上ります。3月10日、源氏を迎え討つため、平家は「平重衡」を総大将として、杭瀬川(岐阜県大垣市)を渡り右岸の墨俣側(上下宿)に陣しました。
一方、源氏の将「行家」(新宮十郎蔵人)は、左岸の羽島側(小熊)に着陣しました。
「源頼朝」は、応援のため弟「源義円」をつけ、西上させたが合流せず、二町隔てて軍を整えました。
「義円」は、「行家」に先陣されては兄「頼朝」に合わす顔がないと考え、唯一敵陣側の西岸にひそみ、夜明けとともに『義円は今日の大将軍なり。』と名乗って、先陣のさきがけをしようと夜明けを待っていたところ、見廻り夜警兵に見とがめられ『兵衛佐頼朝の弟で卿の公義円という者だ。』というが早いか勇敢に戦い討たれました。源氏は戦利あらず、尾張源氏の「泉太郎重光」兄弟討死し、「行家」の子「太郎光家」兄弟は「平忠度」に捕らえられました。
敗れた源氏は退き、矢作川の東岸まで退き東国源氏の大兵来たると宣伝し、勢を盛りかえして遂に平家を亡すことになります。
「源義円」は、「頼朝」の異腹の弟で「義朝」の妾「常盤御前」の子の「義経」と同腹の兄にあたります。兄の挙兵を聞き、比叡山の僧兵のごとく坊主頭を頭巾に包み、墨染の衣を来て鎌倉へ駈け付けたと思われます。墨俣川合戦で悲運の生涯を閉じました。25歳でした。
里人は、義円地蔵を刻み、堂を建て、毎年3月10日に供養を続けています。
源平墨俣川古戦場に義円公園があり、義円地蔵・供養塔・源平墨俣川合戦場碑が建てられています。義円公園より150m西に「源義円」の墓があります。
岐阜県大垣市墨俣町下宿39-1
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すのまた宿 池田屋 脇本陣
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